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​高龍寺の縁起

 推古天皇4年(596)、聖徳太子が伊予(道後)に来られた帰路の途中、能島の沖で時化にあい、千石の港(現津倉港)に難を逃れた折、千手観音が大亀の背に乗って現れた。太子は、国守の小千勝海に命じ、高麗僧恵慈をして開山させ、翌年に「大亀山慈眼堂舟守院龍慶寺」を建立させたという。


 その後、源頼義が伊予国司に任じられた際、荒廃していた同寺を村上仲宗に命じて、定海大僧正が開山した。寺号を改めて、「亀老山潜龍窟船玉院宗豪寺」とした。以来、村上氏が保護し、村上氏の菩提寺となり、壮大な伽藍と末寺72ヶ寺を持った。末寺のうち、23ヶ寺は道前4群(野間、越智、周布、桑村)11ヶ寺は当大島内、38ヶ寺は芸予諸島内にあったが、安芸の24ヶ寺が真宗に宗旨替えしてしまって、本寺からの分離独立を要求し、両者で武力衝突するまでに事態が悪化した。

また、治承4年(1180)には高縄城にて伊予の武将であった河野通清が平家に反旗をひるがえした。大島の村上清長も河野勢に同調して、伊予の国府の平家を破った。これに備後国奴可郡(広島県東部)を治める平家の武将であった入道西寂は激怒し、呼応した平家の一万騎の大軍をもって伊予国に攻め入った。それにより、河野通清、村上清長は戦死した。勝ち誇った平家は帰路、村上清長の祈願寺であった寺院(現在の高龍寺)にも火をつけ全焼した。その後、入道西寂は両氏の息子である河野道信、村上頼冬らによって討たれ氏寺であった高龍寺も再建された。鎌倉の仏師安阿弥に千手観世音菩薩像を作らせ、御本尊としたと伝わっている。

 天正元年(1573年)の中興開山500年忌のとき、悪僧が徒党を組んで院内に火を放ち、強風にあおられて同塔寺院は、ことごとく焼失した。本尊の千手観音を麓まで運んで仮の小堂に安置し、櫂僧正宥印により豪龍寺として再興した。
いつの時代かは不明だが、高龍寺と呼ばれるようになる。本尊の千手観音は、33年に一度、御開帳される。


 高龍寺が現在の地に下ったのは、慶長15年(1610年)のことで、それまでは山の麓から中腹まで弥勒寺、古坊寺、台蓮寺、高龍寺、阿弥陀寺、観音寺、残る一つの寺名は不明。という7つの寺が続いていたという。亀老山の麓や山中にはこれらを関する地名が残っている。中でも一番下にあった弥勒寺は大きなお寺であり、高龍寺はこの跡地に移されたと言われている。この7つの寺院に関しては、時代ははっきりしないが「観音くずれ」という大きな山崩れが起こり、この山崩れにより多くの人々が巻き込まれ多数の死者がでた。そのため古坊寺には千人塚が建てられた碑が残っている。なお、この碑は古坊寺の焼失後は島四国35番札所布留堂の側に移されている。


高龍寺は仁和寺を総本山と仰ぐ真言宗御室派に属しています。

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​昭和9年(1934)頃の高龍寺

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​寺紋 折敷揺れ三文字

​能島来島因島由来記(村上三家由来記)

 高龍寺の伝承は、『能島来島因島由来記』及び『高龍寺記』によって伝わっています。『高龍寺記』は『能島来島因島由来記』に記載されている高龍寺に関する記述を、高龍寺の歴代の住職が抜粋して書き記してきたものです。​なお、『能島来島因島由来記』は書き写した人により『村上三家由来記』とも伝わっています。

​ 村上海賊の創成期を記す貴重な文献であり、高龍寺は、村上海賊ミュージアムのご協力のもと、現代語訳や研究に取り組んでいく予定です。

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今後の研究が進むことを期待して、先代の住職が

譲り受けた因島教育委員会が作成した

『能島来島因島由来記』の写しを公開します。

​ダウンロードはこちら

​一寸八分の観音様伝説

 高龍寺の御本尊である千手観世音菩薩の胎内には、一寸八分の純金で作られた観音像がおさめられているという伝説があります。海賊たちは「船玉院さま(せんぎょくいんさま)」と呼んで敬ったと言われています。

その呼び名には、下記のような逸話があります。

天智天皇2年(663)、朝鮮の国で当時、新羅と戦争をしていた百済から救いを求めて使者がやってきた。朝廷は百済の願いを軍勢をさしむけた。このとき、伊予国の水軍の大将である越智直守興という者も、配下の水軍をひきつれて戦に参加していた。

しかし、大国である唐と共闘した新羅の軍は強く、日本軍は白村江(はくすきのえ)という港で打ち負かされた。そして、越智守興は7名の仲間と共に捕虜になってしまった。3年間の捕虜生活を送る中で、越国の王女と恋におちた。だが、王女は唐軍と越国に帰ることになり、一寸八分の純金で作られた観音像を、自分だと思ってほしいと守興に託した。

守興が祖国の日本へ帰れますようにと祈ると、夢に観音様が現れ「8人で力を合わせて船をつくれ。そして私を船の船首にまつれ。そうすれば望み通り、日本に無事に帰ることができるであろう」と告げた。守興達はお告げの通り船をつくり脱出し、現在の福岡県の海岸に漂着した。

その後、守興達はそのいきさつを帝に話した。帝からお褒めの言葉と郷土であった四国の越智の郡(現在の今治市周辺)をつくって観音堂をつくり観音像を航海の守り仏としてまつることが許された。

歳月は過ぎ、守興の子である玉興の時代、唐の国から玉澄という男が訪ねてきた。玉澄は、自分は守興と王女の間に生まれた子供で、あなたの弟だと、守興の書付を持っていた。

玉興は玉澄に観音像を渡し、越智郡橘の里(今治市の一部と大島)をゆずると伝えた。

​玉澄は観音像を越智一族の先祖である越智勝海の由縁がある寺院(現在の高龍寺)におさめた。同時に、寺号を「大亀山慈眼堂船玉院龍慶寺」と呼ぶことにきめた。本尊である観音像が船玉様と呼ばれるようになったのはこのときからである。

天平17年(745)、瀬戸内海一帯に甚大な被害をもたらした大地震により、龍慶寺も大きな被害をこうむった。玉澄は寄進をつのり、龍慶寺を元の立派な伽藍に建て直した。​景雲3年(769)3月17日には21日間も続く盛大な法要が行われた。

​新しい船を造った際の進水式にくす玉を割るが、これは船玉様の鉢割といって船玉信仰から発したものだと言われています。

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高龍寺の本尊千手観世音菩薩は33年に一度、御開帳しています。
次回の御開帳は令和8年(日時未定)です。

現在、伝わっている御本尊の千手観世音菩薩像は一木造です。

高龍寺の御前立ちの千手観音像

​僧定海と村上仲宗

 永歴3年(1079)秋、来島海峡で時化にあった船が地元の人々によって助け出され大島の船石の港(現在の吉海町)に到着した。救助された船に乗っていた僧侶は当時、都で大変な勢力のあった村上源氏の右大臣顕房卿の子で定海といい、武士は定海の従妹にあたる清和源氏村上仲宗という人物であった。二人は、叔父である伊予入道(源頼義)から、伊予守をしていた時の風物や万病に効くと道後の白鷺温泉について聞き、一度、伊予(愛媛)へ行ってみたいと難波津(大阪)より船出したのであった。大島の人々は、ひどい時化の中であなたがたが助かったのは船玉様のご加護のおかげだと二人に告げた。

 しかし、当時の寺院は堂塔伽藍も痛み、治暦4年(1068)には火災が起き本堂などは焼失した。代々、寺院を守ってきた河野一族の勢力も弱くなっており、小さな観音堂になんとか持ち出した御本尊のみ祀られている状態だった。定海は、村人たちの願いを聞き入れ村上仲宗の協力と伊予の河野郷に住む豪族、河野親経の援助をうけて寺の再建に着手した。

 承歴4年(1080)6月、再建され落慶法要が16日~21日間なされた。また「亀老山潜龍窟船玉院宗豪寺」と改称された。宋豪寺の再興をきっかけに、村上仲宗はこの地域の海賊衆を集めて、武士団をつくりおかしらになった。また、宋豪寺の中興開基になった。

 定海は中興開山となって寺院に3年間住んだ。定海はしばしば大島から道後の白鷺温泉に赴いたといわれる。3年後、仲宗と別れ京に帰った定海は醍醐寺に住み、のちには大僧正座主東大寺別当という高い位につき久安5年(1149)4月15日、78歳でこの世を去った。

 村上仲宗の子孫は、顕清・定国・清長と続いた。中でも清長は讃岐守となって京にのぼり院に仕えた。ところが平治の乱(1160)の際、源氏の大将義朝に味方し義朝の敗北と共に没落して瀬戸内海の塩飽島に隠れ住むことになる。しかし、この島にも平家の厳しい探索の手が伸びて最後には大島に逃げ込んだ。そして死ぬまで大島に住み、この地における村上一族の礎を築いたと伝えられている。

村上義弘の菩提寺

 高龍寺は、能島村上海賊の祖である村上義弘の菩提寺である。義弘は、南北朝時代の村上海賊を差配。下田水を根拠地として海の覇者となり、周りの海を手中に収めて大活躍した。河野海賊が、細川氏の軍勢に取り囲まれた際に、娘婿の今岡氏とともに浅海浦に押し寄せて河野氏の大将・道尭を救出するなど、数々の武功に輝いた英雄でもあった。

 今治市にある長本寺には、数多くの村上氏一族の位牌とそれに属する記録が残されている。その中に「寛政11年(1799)9月仁徳院殿(村上左衛門尉義弘)四百五十年忌、大島高龍寺においてこれを弔う」という記述がある。​なお、義弘以外の多くの村上一族は宮窪地区にあった証明寺が菩提寺であったが、残念ながら現存していない。

高龍寺の境内には、大正8年(1919)、村上義弘公が正五位に叙せられたことを記念し、「贈正五位村上義弘公碑」が建てられている。また、それを証する書面は寺宝として大切に保管されている。

なお、亀老山の中腹にある奥の院(島四国三十四番札所・妙法堂)の隣には、村上義弘公の墓と伝わる宝篋印塔が現存する。

 高龍寺は村上氏一族との関係が深く、高龍寺にあった桜の巨木は無麻理の桜と呼ばれ、村上海賊たちが春になると花見を楽しんだ。天正12年(1584)の春、一度は分裂していた村上水軍の将、村上武慶、村上義光、来島康親(1616年に久留島に改姓)、村上吉継、村上義久らが再会した会談の席上、高龍寺の造営にも話が及んだ。等の逸話が伝わっている。

 

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村上義弘公贈位記

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贈正五位村上義弘公碑

​(伝)村上義弘供養塔

​※現在の高龍寺より、約3キロ程離れた亀老山の中腹にあります。山頂には亀老山展望台があります。

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亀老山の中腹、高龍寺奥の院(島四国34番札所 妙法堂)にある宝篋印塔は、南北朝後期の作で、塔の地下にある経筒に「為村上義弘作」という銘があったため、義弘の供養塔として認定されたという。

塔の正面に向かって右側の格座間には、生前に一族の力を結集してこの塔を造ったという意味である「逆修證結集敬白」の文字が刻まれている。右側にあるべき年号は削り取られてなくなっている。

この塔は、元は現在地から100メートルほど離れたところにあったもので、改葬されて3度目にこの地に落ち着いたという。

この塔の右に建つ石柱には、正面に「前金吾判官村上三郎左衛門尉義弘公廟」、裏側には安政四丁巳五月吉日、願主「本庄村毛利暉良」、右側には「施主桜井村 村上建之」と刻銘されていることから、安政4年(1857)、毛利暉良らによって、この地に安置されたものと思われる。

​現在、亀老山の山頂は亀老山展望公園として整備され、隈研吾氏による設計として知られるパノラマ展望台ブリッジからは、美しい「来島海峡」を一望する事ができ多くの観光客で賑わっています。

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妙法堂(左)と(伝)供養塔(右)

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山頂の亀老山展望公園にある亀の石像

亀老山の中腹にある​

供養塔の場所を示す看板

無麻理の桜​

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​昭和9年(1934)頃 無麻理の桜(初代)

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無麻理の桜(二代)

高龍寺の本堂に至る石段の手前には、桜の巨木があり、「無麻理の桜」と呼ばれ御神木として、地域の人々に愛されてきたことが伝わっています。この桜は、島四国が京都の門跡寺院、御室仁和寺本山御所から准四国を称することが許可された際に、賜った御室桜であったと伝わっています。残念なことに、こちらの写真に写る桜は平成6年に起きた大渇水の際に、枯れてしまい今は見ることができません。

​現在は、御室派の総本山である仁和寺から賜った二代目の御室桜が境内に植えられており、春には美しい花を咲かせています。

​今治藩主の鹿狩

 今治藩主は鹿狩りと称して、領内各地に出向き、鹿・猪・兎などの狩猟を行い、村々の農作物の被害軽減、民情視察をを図る一方、無事泰平に慣れた家臣団一同の士気高揚などを狙いとして領内を巡視して、領民の実情を知ることに努めたと伝わっています。

 中でも、延宝4年に大島で行われた鹿狩りは5日間に及び、鹿45頭、猪24頭を仕留める大規模なものでした。鹿狩りを終えた今治藩主は高龍寺で食事を取り今治に帰って行ったと記録されています。

​「院家」の称号

 高龍寺の住職は、檀家さんから「いんげんさん」や「いんげさん」と呼ばれることがあります。これは「院家」が訛ったもので、天保年間(1830~1843)に高龍寺の住職であった良慧が、西條藩松平氏の領内である前神寺と、小松藩一柳氏の領内にある横峰寺が大島にある石鎚神社の別当寺を巡って争った際に、近隣の4ケ寺の住職とともに仲裁し、石鎚神社の別当は前神寺がつとめることに落着しました。

 この時の、仲裁の功労をもって、大島にある「高龍寺」、「福蔵寺」、「法南寺」、「海南寺」と今治市にある「南光坊」の当時の住職は、総法務から院家の号を称することを許されました。この称号をもった僧侶は、将軍の前に出ても、半畳目礼といって、三尺前で目礼することが許される格式の高いものです。​

 なお、法総務の宮の令旨を伝達した書状の写しは法南寺に、保存されています。

​ 大島にある高龍寺と3ケ寺は今でも毎月月末に行われる御影供や、常楽会などの儀式を4ケ寺合同の法要を行うなど、深いつながりがあります。​

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​福蔵寺

〒794-2103
愛媛県今治市吉海町福田2070

TEL0897-84-2031

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​法南寺

〒794-2113
愛媛県今治市吉海町椋名285

TEL0897-84-2155

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​海南寺

〒794-2203
愛媛県今治市宮窪町宮窪5279
TEL:0897-86-2109

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​南光坊

〒794-0026
愛媛県今治市別宮町3-1
TEL:0898-22-2916

​宝股山 西明寺

 高龍寺の住職は、伯方島にある​宝股山 西明寺の住職を兼務しています。

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真言宗 御室派

〒794-2301
愛媛県今治市伯方町有津甲1541

TEL:0897-72-2171

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